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つぶやき一覧

フルマラソンを走り終えての感想。(4時間44分の戦いについて。)

昨日人生ではじめての挑戦で42.195キロの長丁場、フルマラソンを完走することが出来た。

二十歳くらいの頃から死ぬまでに1度はやってみたいリストに挙げていたが、何とか実現できたことに喜びもひとしおだ。

友人と2人でチャレンジしたが、2人とも無事に完走できたことが何より嬉しい。

正直、当選(大阪マラソンは倍率も高い)したときは戸惑ったしトレーニングもしんどかったが、スタート前日は楽しみで仕方なかった。

普段車でしか走ることの無い『御堂筋』や『26号線』を沿道の応援を背に走り抜けることを想像するとワクワクした。

スタートの号砲が鳴り実際に走り出すと、天候にも恵まれ本当に気分よく走り出すことが出来た。

(途中、ガリガリガリクソンに負けていると知ったときは焦ったが。)

マラソンを多く走っている知り合いが、走っている最中は人生に置き換えて色んなことを考えると言っていたが、僕はそうでもなかった。

一番頭にあったのが、とにかく体が痛い!の一言。

32キロを過ぎた辺りから左足ふくらはぎと股関節、それとなぜか左の鎖骨辺りに激痛が走り、走っても歩いても痛みが治まらなかった。

同じ痛いなら走っちゃえ!と考えて、ゴールまで極力走ることを続けた。

おかげて初マラソンにしては上々のタイムでゴールできた。(当初の目標5時間を大幅に短縮!)

あと、40キロに到達した時点でなぜか泣いてしまった。(理由は不明。)

この体験で感じたことは、多くの方の声援がなければきっと最後まで走りきることは出来なかっただろうと思うこと。(それだけ沿道からの声援が力になった。)

あと、人生に置き換えて考えたとき、前半20キロ(35歳くらいまでか)は友人と一緒に本当に楽しく走れたことと、後半に進むに連れ(35歳以降か?)ただただ苦しかったこと。

しかし、マラソンも人生も後半の苦しさの中にこそ、自分自身の本当の姿(弱さや逞しさや根性)が見いだせるのではないのかと考えさせられたのでした。

お終い。

反省。この歳になって(遅過ぎるとは知りつつ)言葉の重要性について深く考え始めたこと。

もともと言葉数は多くないほうなのだが、ちょっとした発言で人を不快にさせたり人を傷つけてしまうことが多いように思う。

(人に自分の想いを伝える難しさにちょっと悩んでいる。)

話すことが面倒くさかったり、『言わなくても分かるだろう』などと思うことが旧態依然とした男性的で如何に不毛なことであるかを今更ながら思い知らされている。

また、子は親の鏡と言うが、子供の発する何気ない言葉遣いに日々自分が話す言葉について気をつけないといけないとも思う。

しかし、長年身につけた習慣というか持って生まれた性分がそれを実行に移すことを拒んでしまう。

だが、言葉の使用がもっとも重要な仕事に就いている訳で、早期改善をこころみないと『職』すらも失うことも無くは無いだろう。

家人を筆頭に、日々接する方達からの心あるご指摘を真摯に受け止めなければ、『自分自身に明日は無い』と思い始めたのだ。

厄年の来年を無難に乗り切るためにも、『今度こそは低姿勢でのぞみたい』と決意し、事務所の近くにある『会話教室』に通うことも視野に入れている今日この頃なのであった。

俳優 赤井英和が自分の子の死について語っていました。

今朝の朝日新聞朝刊のコラムで、俳優の赤井英和氏が幼くして亡くなった自分の子(双子)について語っていた。

生まれて間もなく亡くなった子のことを振り返って語られているその内容を読んで、氏の意外な一面を見た思いだ。

関西のテレビに良く出てはバカなことばかり言っている姿を見て、『この人ホンマに根っからの野生人やな~』と感じることがほとんどだったので、彼にそんな悲しい出来事が起こっていたなんて思っても見なかった。

人は皆、他人には言えない悩み事や悲しい過去、自分が犯した過ちについての後悔などさまざまな思いを背負って生きている。

それを再認識させられた今朝の出来事でした。

しかし良く考えると、赤井氏自身は西成の不良から拳ひとつ(と、たゆまない努力)で成り上がった努力家であった。

バカなことを言いながら豪華に笑うその笑顔の奥には、家族や亡くした子に対する深い愛が隠されているのだろう。

人に助けられる人、人を助ける人、自分自身に責任を持って生きる人。

人間にはいろいろなタイプがいて、人助けをする人もいれば人に助けられて生きている人もいれば人に係わることを極力避けてしかし自分と自分の家族に責任を持って生きている人などさまざまだ。

僕の周りにも家庭環境や生活環境から人の助けを必要としている人が沢山いる。

そんな人達の中のある人が言っていた言葉に今も違和感を抱いていることがある。

その方が占いで見てもらったとかで、『あなたは周りの人に助けられて生きていく強運の持ち主ですよ』とのこと。

それを誇らしく語りながら、『だから自分はこれからも人に助けられて生きていくんだ。』と。

でもそれでいいのでしょうか?

人に助けられて生きていくこと自体はまったく否定するつもりは無い。

だが、それに胡坐をかくようなその発言に僕は今でも違和感を持っている。

その方の発言の真意は測りかねるが、どうも助けられることの意味をはき違えているように感じてならない。

『蛙の子は蛙』か?

先日新聞のコラムで13才の少年が気象予報士試験に合格したとの記事を見た。

12才9ヶ月の史上最年少合格者だとのこと。

本当に凄いと思うが、その少年が取得した資格を活かせるように周囲の大人や教育関係者が良い指導をしてあげることを望む。

幼くして才能を開花させる人間は沢山いるが、それを自分の人生に活かせている人間が多いとも思えない。

あいにくこれと言った才能を持たずに今までボチボチ生きてきた僕は、一念発起して死ぬ気で獲得した『行政書士』の資格にすがって頑張っている。

自分の子には何も求めないことを子育ての基本としているが、もしも万が一でも何らかの才能を垣間見ることがあったら、子育ての方針もガラッと変わるのかも知れない。

『蛙の子は蛙』と言うが、子供に隠された才能が無いものかと父は冷静に様子をうかがっているのであった。

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