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ただいま休憩中・・・一覧

久しぶりにサッカー観戦を楽しみました。

昨日、僕が応援しているサッカーチームの応援に息子2人を連れて行ってきました。

大阪の堺市に『J-GREEN堺』という日本最大級のスポーツレクリエーション施設があります。

初めてそこへ足を踏み入れましたが、とにかく規模が大きく見渡す限りサッカーをしている人たちで埋め尽くされていました。

正直、こんな素晴らしく整った施設が大阪にできていることに驚きました。

天候にも恵まれ応援していたチームも4-0の圧勝と、とても気持ちの良い一日を過ごすことができました。

高校進学の際にサッカーを辞めてしまったことを今でも悔やんでいますが、息子たちにはこんな恵まれた施設が用意されているだけでもサッカーをさせる価値があるのではと感じさせられました。

『日本人の韓国離れがますます鮮明になっている。』との報道に接して思ったこと。

冬ソナのヒットから長期間にわたって老若男女問わず根強い人気を誇ってきた『韓流ブーム』に陰りがみられるようです。

報道によると、【博多・対馬・下関と釜山を結ぶフェリーと高速船の2013年度上半期の輸送実績で、日本人の利用者が34.9%減の11万1千人と1999年度の調査開始以来過去最低となったとのこと。一方、韓国人利用者は前年同期比8.8%増の47万7千人と過去最高だった。韓国から近い対馬の人気が継続しているほか、円安ウォン高も影響したとみられる。】(九州運輸局発表)

確かに周りを見ても韓ドラの話をする人が減ったようにも思い、また僕が度々訪れる大阪の韓流ショップのメッカと呼ばれるJR鶴橋駅から御幸森のコリアタウンまでの区間に多数軒を並べる商店でも一時の賑わいが去ったように感じる。

為替の影響や政治情勢、また最近はやりの『ヘイトスピーチ』など、様々な要因が考えられるが、僕が思うに『どんな流行にもとりあえず乗っかろうとする“にわかファン”が去ったこと』が主因で、ブームは去ったと言えるが固定したファンからの指示はいまだ根強いものがあるのではないでしょうか。

熱しやすく冷めやすい気質は日本人も韓国人もとてもよく似た部分だと思いますが、これをコントロールしているかと思われるマスコミや政府の思惑に必要以上に踊らされないようにしなければならないのだ。

正義感あふれる若者の行動に感動したこと。

先日地下鉄に乗っていた時の出来事。

堺筋本町の駅に到着した電車が出発のアナウンスを終えた後もしばらくドアを閉じずにいた。

その数秒後、最後尾の車両に座っていた僕の耳に幼児のかすかな悲鳴が聞こえてきた。

とても嫌な予感がしたので何があったのかと車外へ飛び出そうとすると、ドタドタと人の走る足音が近づいてきた。

血相を変えた若い男性が僕が乗っていた最後尾の車両の運転手に向かって、「子どもが手を挟んだ!(正確にはドアに手を引き込まれたようだ)」と叫んでいた。

興奮しながら運転手に「ドアを慎重に閉めるようにしてください!」と伝えた若者は、今度は自分のいた車両(ちょうど真ん中あたり)にいったん戻り、また走って子どものいる先頭車両の方へ向かった。

幸い大事には至らず数分後に電車は発車したが、どう見ても自分の子どもに起こった事故ではないにも関わらず、機敏にそして一生懸命に走り回る若者の姿に感動させられた。

手をドアに引き込まれた子どもはさぞ痛かったと思うが、他人のことに一生懸命になる青年の姿に何だか気持ちが爽快になった。

他人に無関心なこの世の中で珍しく良い出来事に出くわした体験でした。

『半沢直樹』のクライマックスは予想していた通りだった。?その3?

『半沢直樹』のような勇ましい働きぶりはとてもじゃないけどできなかったサラリーマン時代。

それに根っからの無愛想さとふてぶてしさを兼ね備え、またそれを欠点とも気づかないままスクスク育ってしまったことにより、上司からは随分嫌われていたと思う。

お世辞の一つも言えない人間が、よくも14年間サラリーマンとして勤められたと不思議にすら思う。

逆にいうとそんな人間を長期間雇っていただいたことに感謝もしている。

そんな象徴のようなこともあった。

僕が配属された支店の後輩がある融資案件を稟議に上げたところ、上司に否決された。

キャンペーン中である融資商品を売ろうと必死に掛け合って取ってきた融資案件を否決されたその後輩は意気消沈して落ち込んでいた。

そんなとき、ある役員からのトップダウンの融資案件がスルーパスを通すがのごとく決済されたのだ。(ごくごく当たり前のことだが。)

問題は、その融資案件の内容と後輩が上司に否決された融資案件が酷似していたこと。

キャンペーン総括の席上、僕はすかさずそれを指摘した。

融資の内容ではなく持ってきた『人』によって判断が変わるのか!、それを問題にしたのだ。

一人エキサイトしている僕の周りで、他の職員はただ俯くばかり。

中には僕の行動を見て薄笑いを浮かべる上司様も。

『当たらず障らず目立たなく。上司の機嫌は損なわず。』

銀行員としての基本姿勢をついに勉強できないまま、僕は銀行を去ったのであった。

お終い。

※注:幾分話を盛っていますが、ご了承ください。

『半沢直樹』のクライマックスは予想していた通りだった。?その2?

『半沢直樹』にあやかったおかげでブログの閲覧数が大幅にアップしたので、今日も過去のバンカー時代の話をしよう。

バブル崩壊直前の1991年に高卒ルーキーで入行した我々の同期は実に70人近くに上った。

研修では、当時30代前半と思しき総務部の男性職員が、『近い将来、我が組合もニューヨークへ支店を出す日がくるだろう。諸君もその時に備えて英語を習得するように!』と真剣な顔で話していた。

その表情からは微塵も冗談を言っている様子は伺えない。

泊りの研修は当時組合が保有していた高級リゾート施設で実施されるなど、経済しかり社会がなんたるやも分かっていない小僧にとっては夢のような未来を想像させた。

入行した後もそれは続き、ボーナスは年に4回(うち2回は決算手当。)支給され、社員旅行も青年部のものを含めると年3回に及んだ。

しかしそんな状況も長くは続かなかった。

ボーナスは通常の年2回になり、入行1年目に行ったスキー旅行では最上階に温泉のある豪華なホテルに泊まったのだが、2年目には場末の民宿へと激変したのだ。

そのうち右肩上がりだった預貸金が減少に転じ、バブル崩壊とともに組合の体力は確実に失われていった。

それから10年以上の月日を沈みゆく“難破船”に乗って過ごした僕だったが、その後2度の経営破たんを経験したことで『とてもじゃないけど顧客とフェアな立場で対話する精神状態』になれず、また仕事に対するモチベーションも完全に劣化してしまったことで退職を決意したのである。

退職後、尊敬していた司法書士の先生に言われたことがる。

『君は組合で2回もの組織の破たんを経験したのだからその経験を無駄にしてはダメだ!まず最初に破たんに至った経緯を詳細に調べて記録を残すべきだ。それを君がやれ!』

その当時はあまりピンとこなかったその言葉だが、今となって思うのは、その司法書士の先生の言う通り『失敗の原因を精査して記録にとどめて、必要に応じて責任を追及すること。』

これが組織の再出発と人間自身の再出発においてとても重要なのではないかということ。

果たしてそれは実現されたのだろうか。

辞めてから既に10年近い歳月が経つが、『半沢直樹』を見てそんなことも頭をよぎったのであった。

お終い。

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