ブログ

  1. HOME
  2. ブログ

ブログ記事一覧

新しい在留管理制度に移行されてから負担増になった帰化申請添付書類が今週から簡素化された件。

新しい在留管理制度(在留カード等の登場)が始まってからしばらくすると、法務局で行う『帰化申請手続』においても、いつくか新たに要求される書類が増えた。
一つは年金に関するモノ。
それともう一つが『外国人登録原票の写し』だ。
年金については正直払っていない外国人が多く、法務局の窓口相談員の叔父さんたちもそれを承知しているようで、『誠意を見せたらいいんじゃない』と何やらよくわからないアドバイスをしてくれる。
もう一つの『外国人登録原票の写し』とは、2012年7月9日をもって廃止された『外国人登録法』によって管理されていた我々特別永住者を含むすべての(登録した)外国人についての個人情報管理台帳のコピーのこと。
これは、以前は居住地の市区町村に保管されていたものが(古いものは法務省だが)、外登法廃止以降は全て東京の法務省の情報管理部署(請求先は大臣官房秘書課個人情報保護係となっている)に備置されている。
それを郵送で請求するのだが、全て本人(未成年者のものは法定代理人)が請求し、本人宛に開示される。
以前は1か月以上待たされたが、最近は少し早まった感がある。(急ぎの場合は請求書が届いたころ合いを見て電話すると意外に早く届く!)

この『外国人登録原票の写し』が今週(1月27日)から不要になったと言うこと。
(神戸の後輩は「神戸では2月1日から不要」と聞いたらしく、どちらが正解なのかそれとも大阪と神戸で違うのかは直接ご確認を!)

何にしろ、書類が簡素化されたことはとてもありがたい。
がしかし、結局『履歴書』に記載しなければならない『居住歴』を正確に把握するうえで、我々外国人の住所の沿革を知るすべは今回不要になった『外国人登録原票の写し』でしか確認することができない。
やっぱり必要なのに変わりは無かったのか、、、
日本人のように戸籍の附票みたいな便利なもの作ってくれないかな。
せめて我々特別永住者にだけでも、、、

いじめを公然と行う者が『いじめを根絶させる!』と息巻いていることの矛盾について。

欠かさず傍聴を続けているいわゆる『高校無償化裁判』の傍聴に行ってきました。
大阪地裁で行われていますが、定員オーバーなので傍聴券をめぐって毎回抽選が行れるにぎわいよう。
いつもと同じ202号法廷(かなり広い)は、裁判官3人に原告側・被告側合わせて30人近い人々が席を埋めていて、それに傍聴人を含めると100人近い人数になるのでは。(こんな場所で不謹慎と知りつつ、不覚にも裁判官席に座る綺麗な女性判事に一瞬見とれてしまった!)
原告代理人はそのほとんどが正義感に満ち溢れた弁護士たちですが、僕の知るところでは彼らのほとんどは手弁当で今回の裁判に関わっているとのこと。
この裁判に臨む意気込みの強さは如何ばかりか想像できよう。
それに対して被告(国)側は多分ほとんどが公務員です。
勤務先の会社(日本国)が倒産する心配など無く、当然ですが会社の利益のために全力で参戦している生粋の公務員軍団。
この2者が同じ土俵であいまみえているのです。

この裁判に関しての僕の個人的な意見としては、国が間違いを認めて早くこの争いを辞めればいいのにと思うのです。
どう考えてもこれは朝鮮高校生を狙い撃ちした明らかないじめでしょう。
日本の国は特に学校でのいじめ問題の解決に取り組んでいるはずでは?
社会からいじめを無くそうと取り組むのであれば、まずは自分達が模範を示すべきではないのでしょうか。

子ども達の世界でも、得てして『いじめる側』はその認識がなかったりするものです。
『いじめられている側』が声をあげて初めていじめが発覚するものなのではないでしょうか。
今回の裁判を通して『いじめられている側(朝鮮高級学校)』は誰の目にもわかるように声をあげています。
あとは『いじめる側(日本政府)』がその声にどう対応するかにかかっていると思うのですが、、、(そもそも子ども相手に一国が全力で争うようなことなの?)
それだけの話ではないのでしょうか?

自分が住んでいる国、それも永住することが大方決まっている国の国籍を取得すると言う至極一般的なことについて。

お祖父さんの代から三世代に渡って引き続き日本に住んでいる僕の国籍は未だに『韓国』となっている。
住んでいる土地柄により、また付き合っているコミュニティーにより、自分のような人間が極少数派であることをあまり感じたことがない。
しかし現実を見ると、仕事上、韓国⇒日本、朝鮮⇒韓国、はたまた朝鮮⇒日本へと国籍を変更する方が多いことを仕事柄身に染みて感じている。

在日4世、5世まで生まれている現在の状況においては、日本国籍取得を考える方が増えはすれ減ることなど絶対にありえない。
第一、在日コリアン(特別永住者)が本国へ帰国することなど今となってはありえないことなのだから。(遠巻きから無責任に支持若しくは非難するのは自由であるが。)
朝鮮国籍者に至っては、もう本当に一握りといったところか。(何故かいまだに『韓国・朝鮮』でしか統計が発表されないので実態が分からない。)
これは本当に減り続けていることによる弊害に危機感を覚えるくらいに。
少数者は少数になればなるほど多数者の差別を受けやすくなる危険性があると思うのです。

僕の事務所へ国籍の相談に来られる方たちからは様々な人間模様を見せられます。
そこで僕が感じるのは、『国籍の保持に自身の信条やアイデンティティを委ねている人間はそれほど強くは無い』のではないかと言うことです。
国籍が変わろうが名前が変わろうが、その人の信念や理想、大切にしている何かが変わるのでは無い。
変わるのは『その人を眺める他人の目』なのである。

だからと言って日本国籍を取得する勇気はまだ僕にはありませんが、、、

子どもの成長に極度の寂しさを感じるのは自分だけじゃなかったと安心したこと。

子ども嫌いの大人の方が圧倒的に多いと感じるが、僕は全く子どもが嫌いではない。
小さい頃から常に周りに自分より幼い子どもがいたからなのか(親戚の中で僕が一番年長だった)、小さい子どもと遊ぶことに慣れている。
でも本当のところは、いつまでたっても僕自身が人間的に幼く、子ども目線で彼らと接していることが原因か。(今でもたまに小3の娘と真剣にケンカしている。)
ただ、40の声が聞こえてから以降、急に子どもと遊ぶことに極度の疲労を感じるようになった。(仕事はいくらしても疲れないのに)
最近では自分の子ども以外とは話をするのも億劫になる。(ダメなことと知りつつ、正直に言うと。)

今朝の朝日新聞の『声』欄の投書で、45歳の奥様が『自分の子ども達が大きくなったら、もしかしたら今のように食卓を囲んで自分の手料理を家族みんなで食べることが無くなるのではないか』と将来確実に訪れるであろう寂しさを言葉にしていた。
それを読んでとても共感できるな~と思った。

『お前が寝てる時、これ以上大きくなれへん注射打ったからな!』と脅す僕に、目を丸めて心配そうな表情を浮かべている3歳の次男も、やがてはランドセルを背負い、そして僕にダッコをねだってくることもなくなるのかと思うと、子どもの成長って本当に寂しい。
親のエゴだとは知りつつ、ゆっくりゆっくり成長してほしいものだ。
あとは妻にもう一匹『可愛いの』を産んでもらうしかないか?

『子宮に沈める』。「大阪2児置き去り死事件」が映画化されたがとてもじゃないけど見る勇気がでないこと。

度々このブログでも取り上げた事件、『大阪2児置き去り死事件』が映画化されたようだ。
事件に関心を持って加害者である2児の母親の裁判の様子も気にしていた僕ですが、映像化された『事件』を見ることはできないと思う。
この件について書かれたノンフィクションは読んだが、それでも事件のこと、飢えと衰弱によって亡くなってしまった二人の子どものことを想像すると何回も途中で読むのを辞めようかと思ったくらいだ。
これを映像として見ることができるのか想像しただけでおぞましい恐怖感に駆られた。

今朝の朝日新聞ではメガホンを握った監督のこの映画に込めた『思い』について語られていた。
「この事件を単に加害者となった2児の母親にのみ押し付けていいものなのか!」
時の経過とともに僕の考えも監督の主張に傾きかけている。
怖いのは、一審で加害者である2児の母親を裁いたのは、人を裁く経験すら持ち合わせていない一般の市民たちだったという事実だ。
この裁判に関わった裁判員たちがこの映画を見た時、一体どんな気持ちになるのだろうか?

※裁判は最高裁まで争われ、懲役30年が確定した。
映画『子宮に沈める』

日本の生活でお困りのことはご相談ください
06-6766-7775 土・日・祝日も相談OK 受付/9:00~20:00